2019.9.1
最近、「人に教えるような人になりたい。」「教育したい。」という人が多いことに気づきました。
その夢は素晴らしいことだと思いますし、否定するつもりはまったくありません。
でも、僕自身は「教育したい」という気持ちはまったくなく、全然ピンときません。
そんなことを考えたこともない、というのが正直な気持ちです。
一応、大学教員という仕事をしているのにこんなことを言うと、
「けしからん!!」
そんなふうに思われるかもしれませんが、率直な気持ちです。
自分なんて、研究も診療もまだまだ未熟で、勉強中。
教えるなんてとてもじゃないけどできない、そう思っています。
そもそも大学教員って、小学校・中学校・高校で働いている「教育免許」を持っている先生とは異なり、教育論や教えるノウハウを教わっていないので、どうやって教えたらいいのかわからないです。
そんな僕ですが、大学教員になって7年。
自分についてくれる学部生や大学院生も増えてきました。
また、動物病院の診療では研修医の先生たちにも教える立場にあります。
日々手探りで、おそらくたくさんの迷惑をかけながらも、何とか(ごまかしながら?)大学教員を続けていくなかで、自分なりにわかってきたことがあります。
それは、
やっぱり自分には「教育」なんてできない、ということ。
でも、その代わりに、これまで培ってきた経験から、僕にできることも見つけました。
それは、
「教育」ではなく「共育」です。
上の立場からモノを教えるのではなく、同じ立場で一緒に考え、学び、共に成長する。
イメージとしてはこんな感じでしょうか。
「教育」は上下関係があり、上から下に「教えてあげる」というイメージ。
それに対して「共育」はフラットな関係で、お互いに意見を交換し議論することで「一緒に成長する」というイメージです。
最初に書いた、「教育したい!」という人に感じた違和感は、一般的な教育のイメージと僕の中のイメージにこのようなギャップがあったからだと、なんだか腑に落ちた気がしました。
僕はまだまだ未熟です。
研究者としても、獣医師としても。
そんな僕が、偉そうに上の立場から教えるなんて、やっぱりできません。
でも、学部生や大学院生、研修医のみんなと一緒に考えることはできます。
一緒に夢を語り合うことができます。
その夢に向かって、一緒に挑戦することができます。
その挑戦が失敗したとき、その原因を一緒に検証することができます。
そして、失敗で折れそうになる心を支えて励ますことができます。
それが、僕が今までもがきながら、なんとか見つけた、自分にできる精いっぱいのことです。
そして、あるときふと気づきました。
僕は学部生や大学院生、研修医のみんなと一緒に考えてもらっていたことを。
一緒に夢を語り合ってもらっていたことを。
その夢に向かって、一緒に挑戦してもらっていたことを。
その挑戦が失敗したとき、その原因を一緒に検証してもらっていたことを。
そして、失敗で折れそうになる心を支えて励ましてもらっていたことを。
自分が「与えている」と思っていたことは、実は「与えてもらっていた」んだという事実。
やっぱり、僕には「教育」なんてできない。
僕にできるのは、共に学ぶことだけだ。
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